2021年3月1日、僕の留年が決定した。
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皮算用
3月8日。
僕は、医学部再受験に一縷の望みをかけることにした。
1週間悩んだ挙句、普通の大学の理工系で1年留年するくらいなら、という気持ちが勝った。
算段はこうだ。大学を一年休学して、アルバイトで予備校代を工面しながら河合塾の医進館に通い、最終的に地方国立の医学科に滑り込む。
いま書いてみるとあまりにも馬鹿馬鹿しくてしょうもない奴なのだが、いたって大まじめだった。2年のギャップを背負っているのでそう簡単には行かないだろうが、追い詰められたカイジの理論で、どうにかなるだろうと思った。弘前でも山形でも、こんな自分を取ってくれるならどこでも行くつもりだった。
それからは早かった。
優秀な親に対して落ちこぼれだった僕が、再受験を志したのは親にとっては嬉しいことだったようで、再受験の提案はすんなり受け入れられた。特に、母親の親族一同は僕に医者になることを強く小さいころから勧めてきたので、なおさらだった。
両親にコンプレックスを抱えていた自分にとっても、それを晴らせる絶好の機会かもしれない、とまで思った。実家に帰るように言われたので、下宿先は3月末で引き払う契約書を書いた。本当にあっという間に色々と決まっていった。
大阪のアルバイト先には、世界一周のバックパックをします!と嘘をついて辞めた。嘘はいまでも付いたままだ。そして、大学の周囲の友人には一切を黙っていた。静かに去って、忘れ去られることを期待した。一年生からろくに学校に来なかった僕と、それでも仲良くしてくれる彼らに嘘はつきたくなかった。いま思うと、黙っていることも、罪深いように思える。
次に、予備校の試験を受けた。河合塾の医学部進学コースを受講するには認定試験を受けなければならない。模試の成績でもいいのだが、いかんせん2年前である。腹をくくって再受験を決めてからは勉強をしまくっていたので、ちゃんと上から2番目のコースの認定が出た。学力は、なんとかなる可能性があると、ほんの少し自信を深めた。
最後に、交際相手には、涙ながらに再受験することを伝えた。なんと言ったのか自分でも覚えていないが、それはそれは情けない顔をしていたように思える。自分のやりたいことを、とプッシュしてくれたことに、いまでも感謝しかない。
親と僕の筆で退学届にサインをして、工学部長からの判子も貰って受理された。先生方は20年働いてきて5人はお前と同じようなのがいた、と面白がっていた覚えがあるし、特段引き留めも無かった。
さあ!いよいよ大阪を離れ、人生一発逆転へ挑むときである。人生のピークがセンター試験という、あまりにもしょうもない人生を過ごしてきた人間が挑む、起死回生の一手である。
木村の一番長い日
3月30日
この日、大学の担当の先生から、大学に来るように電話が掛かってきた。
もう僕は大学とは関係が切れていると思ったので、少し驚いた。
さて…電話口で伝えられた内容は衝撃の事実である。
どうも、特別にカリキュラムを特別に改訂し、進級させる、というのである。
あの…
明日から、4月ですけども???????????
家引き払ったんだけども?????????????????????
退学届は!!!!???????!?!??????????
本当にここまでまるで留年したような書きぶりをして申し訳ないのだが、マジである。僕を含めて設計学を落とした人間が相当にいること、そして再履修出来ないのは次年度から大学のカリキュラムが変わるから、ギリ望みのある木村ともう1人のみ掬い上げるということになったのだ。
めちゃくちゃ困る。本当に困る。ここまでの4週間を返してほしい。嬉しいような、情けないような、申し訳ないような、恥ずかしいような、何とも言えない脱力感に駆られ、変な声が漏れてしまった。
さて、選択は極まっている。大学を4年+修士2年で卒業するか、受かる保証のない医学部再受験に乗り出すかである。
家がないのはまあ、なるようになるだろうし、復学もいまなら出来るらしい。まずいのは家族への体裁である。家族には「地域医療に貢献したい」ということをイースト菌のごとく100倍にも200倍にも膨らませて再受験の決意を伝えていたので、今更引き下がれない。そして、自分自身と、もう一度向き合わなければいけない。
猶予は1日。次の日、3月31日までである。
人生で、最も長い1日だった。
結果は、このブログを読んでいるひとがほとんど知るように、大学に残り、ストレート卒業に勤めることにした。たいそうなタイトルを付けた割に大したオチじゃなくて、申し訳ない。最後に、そう決めた経緯だけ書いておく。
3月31日
この日の13時に、どうするか教授室まで来て教えてほしい、ということだった。実に、24時間後である。30日の夜はまったく眠れず、食事もできなかった。インターネットでどうすればいいか調べれば調べるほどわからなくなり、頼れるひとは誰一人としていない。自分で自分の人生に責任を持つとはかくなることかと、実感した。
朝起きると、10時だった。眠れなかったので、遅い時間に起きてしまった。あと3時間しかないのかと、心臓がぎゅっと締め付けられた。阪急電車を乗り継いで、最寄り駅に着いた。駅から大学までは1キロ以上ある緩やかな坂道が続いている。坂道を登り切るまでに、決めようと思った。
書くだけで恥ずかしいのだが、大学の入口まで来たときに、美しく桜が咲いているのをみて涙してしまった。流体力学を学ぼうと、強く思って大阪まで来た19歳の自分を思い出した。ふがいない学部生活を送ってしまったことがあまりにも情けなかった。
人生に一発逆転などそうそうない。そもそもひとつのことをやり遂げられないのに、なにか新しいことに手を出して上手く結果を残せるほど、器用な人間ではない。おそらく21年の人生で初めて、等身大の自分と向き合えた結果、最終的に、いま与えられた環境でしっかりと花を咲かそうと思った。
僕は、大阪大学を卒業する意志を固めた。
それから
それからは、周りに追いつけ追い越せで大学の勉強をやり直した。なんとか3年生からはフル単取得で進級を達成したが、成績評価は芳しくない。それはそのはずで、線形代数の単位が取れていないので行列の掛け算や逆行列の導出もできず、簡単な複素積分すらできない。すべてマセマからやり直したが、今でもギャップは全然埋まっていない。
それでも、自分にできることをひとつずつこなすという、当たり前のことを覚えたのは、成長の証だと思っているし、いまではそんな自分に誇りを持っている。
ちなみに親含め実家、親族からはお察しの通り、完全に見放された。一家の恥である。経済的にもかなり厳しい戦いを強いられてるが、この話はまたどこかで。
まあ正直医学部再受験にブルって敵前逃亡しただけっしょって言われたらそれはそうだし、ゴミやなあとか言われても仕方がないのだが、それも含めて、成長の糧になる…かしらね。
(おしまい)